昭和51年04月25日 久富くにか一年祭御理解
「信心する者は何事にも真心になれよ。」
「何事にも真心になれよ」と教えてあります、とりわけこうして霊神様ごとまたは神様ごとを奉仕する、仕えさしてもらう事に当たっては、尚更の事真心になれいわゆる真心にならなけりゃならないと言う事です。例えば私共が御大祭なら御大祭を仕えさして貰う、それには唯なら、ご大祭が賑やかに盛大に出来たということだけではいけん。それを仕える内の前後の心配りその心掛がけが大事、はぁこういう心の状態でお祭りを奉仕さして頂いたら神様が喜んで下さるだろうと、言う様な心を作る事が先決です。
御霊様のお祭りでもそうです。本当に前々から願いに願い祈りに祈り、そして今日の霊祭一年祭という霊祭を奉仕させて頂く。唯霊祭霊祭というて唯大事をしてその霊祭が出来たというだけでは、それは信心のある者も無い者も同なぁじ事。ただ一年が来たから一年の式年祭をしたというだけの事。その式年祭が本当に御霊が喜んでくれるような、御霊が安心してくれるようなお祭りを奉仕させて頂きたい、それにはこんな心のイライラした状態であったり、または不平不足のこの状態であったりと言った様なものを。
自分の心から一つ取り除かして頂く修行を本気でさして頂いて、ちょうどお祭りを奉仕させて頂く、このいうならば時間的にいうならば時間の状態が、自分の心が安らぎ喜び、本当に御霊の喜びと御霊の安心と、私共が頂いている信心の喜びと、そしてその安らぎとがこう交流するそういうあのうお祭り、これは霊祭とか大祭とかということだけでありません、もう一事が万事にそうです。
人に面接をすると言った様な事が前々から分かっておるならば、面接する前の前後にはぁ自分の心の状態がイライラしている時であったら、相手にイライラが移るでしょう。「こん奴が」と思って面接したら、こん奴がというのが必ずどこかに現われるでしょう。だからそういう一つの面接なら面接をするでも、本当にあのう心の状態が和らいで安らいでおる状態をつくる、そういういわばあのう稽古が信心です。
金光様のご信心は、どんな場合であっても。その前後ねお食事ならお食事をさして頂くでも、ブリブリして腹かきまわってからご飯頂いたんじゃ血にも肉にもなりません。本当にいわゆるお食事さして頂く前には、皆んなが食物訓を称えて拍手を打って頂く、その『頂く心』がその場に出来ておらなくして「さあいただきます」と言うただけでよかろうはずがない、ひもじゅうしてガブガブ食べたというだけである。それが本当に血肉になるためには、そのお食事をさしてもらう。
その前後の心の状態が、本当に頂きますという心の状態を先ず作ってお食事にかかる、それが信心なんです。「何事にも真心になれよ」というのはそれなんです。ですから例えば「頂きますという心あらば当たる事なし、障る事なし」と仰る、それが血肉にならないはずがない。全ての事柄もそうです。全ての事柄がいわゆる「頂きますという心あらば」と仰るように、どういう嫌な問題難儀な問題苦いとか臭いとか言う様な事柄であっても、それを「頂きますという心」あらば、それが信心の血や肉にならない筈がない。
心が豊かになってゆくおかげにならないはずがない。今日は丁度25日の婦人会同時に研修会、それから昨日から明日まで松栄会の方達が入殿研修をやっております。もう今日はそういう訳でテンヤワンヤでしたが、まぁ研修私が出らしてもらう研修の時だけ皆んな合同でさして頂いた、三時半頃迄さして頂いた。そしてこのお祭り、私の心は朝から研修研修で磨く事に一生懸命、私の心はもうそれこそ今日の御霊様の御用をさして貰うに、いうならば相応しい心の状態で。
今日のお祭りが出来たということが、私自身は有り難いと思うております。これは全ての事ですよ、仕事にかかるでもそうですよ、自動車に乗るのでもそうですよ。モヤモヤしたイライラしたって運転をしたり仕事するからええ仕事が出来んのです。仕事にかかる前後、はぁ心の状態で「ただ今から御用さして頂きます」という心あらば、ええ仕事が出来ないはずがない。自動車の運転でもずっとこうハンドルを握る前に、拝まして頂く心の状態があるならば、もう絶対事故などある筈はありません。
それを唯忘れとったてなちゅうな事で、一人イライラしたりモヤモヤしたりと言った様な事ををです、するから必ず事故がある起ったりするのです。だからもう特にこの勇さんなんかは非常に大体が短気であんなさいますから、こういう心の状態をいつぅも作る事に精進する事が信心です。そういう心の状態に、例えばいつも心の状態を持って行くという処に、いうならば信心の心がいやが上にも安らぎ、いやが上にも安心が生まれ、喜びが生まれそういう心で事がなされる。
もう私は一番今朝から有り難いと思ったこは、昨日が美登里さんがお勤めに出らして頂いて初給料日だった。もう本当に親としてこんなに嬉しい事はないでしょうね、子供がいうなら一本立ちが出来る様になった。しかも始めてならあのう金を稼いで初給料が頂けた。そして明くる日はお母さんの霊祭に会われる、それこそ私が働いたお金でこのう甘い物も、辛い物もと言う様な思いがそこに表される。
もう一つ私が有り難いと思うて御霊様に報告した事は、清子さんが今度縁談が調うて、おかげでまぁ真近かにその結婚の相手の方が決められたと言う事。もう本当にお礼をまぁ申し上げるというか、または御霊様に喜んでもらうというか、そういう状態がもう一人一人の上におかげで。例えば正義さんが今帰って本命の仕事をしてはおりましょうけれども、まだこれは正義さんが長年かかって勉強した仕事とはいえない、いわば本命とはいえない、だから僕の全力を注げれる処のお仕事が見つかる様なおかげを頂くと言う事。
そういうことが御霊が喜んでくれる安心してくれる思う。それにはどうしてもおかげを頂かなければ立ち行かんと、おかげを頂かなければ本当に立ち行かんのだという、このねあのう信心、しかもなら信心とは拝む事、参る事ということではなくて、今皆さんに聞いて頂いたように、事々にその前後にお食事さして頂くでも先ずなら「頂きます」という心が出来る状態を作っていくということが信心なのだ。
信心というのは棚からぼた餅のごたるおかげを頂けるとか、さぁない命のない病人が助かるとか、成る程それもおかげに間違いありませんけれども、それは私は本当のおかげではない。本当のおかげというのは本当の信心、本当の信心とは今言う様に、何事にも私が信心になれると言う事、何事にも真心になれるということ、それが信心なんだ。そこに限りないいわば信心の展開が続けられて、いわば最近合楽でいわれる信心の真を現してゆくと言う事に生き甲斐を感じる。これは信心をさして頂かなければ分からない。
信心の真を現していけれる程しの信心の展開を求めていく信心になる時に、神様が安心をして下さり喜んで下さる。だから私共も安心が出来れる仕事も頂けれるだろう、又神様が喜んで下さるから、私達自身も喜べれるおかげにも繋がって来る道理です。何事にも真心になれよ今日丁度研修を終わらして頂いたら、久留米の原口というあのう楽人の先生ですけれども、私共が先生の琴を頂くあのう声唄を聞かせて貰ったら、この人こそ樂の天才だろう名人だろうと思う位素晴らしいです。
琴もですけれどもその声が素晴らしいです。ところがなら今日お参りになったのは、悩みに悩んで私が合楽におかげを頂く時には、櫛原のご信者ですから、もう悩みに悩んで苦しみに苦しんで、どうしていいか分からんと言う時だけ出て来て、すいませんと言われますが、今日もそんな事でどう言う事かというたら、どんなに精進しても精進しても、稽古の時には、はぁ自分ながら惚れ惚れするような声が出るけれども、実際本番になるとその声が出ないって。
「ほぉう先生私なんかあなたの声ば聞きよると、それこそ吸い込まれるごたる素晴らしさがあるが」、ところがさぁ実際取り組んでいる者はそうじゃない。私は今日は大阪の玉水の先生信者が5万人もおるという処の、教会長先生の書かれたものを読まして頂いたが、一日一生懸命努めさして頂いて、最後に神様にお礼を申し上げる時には、今日も一日足らなかった事で自分の心の中が浅ましいぐらいに、あいそが尽きるぐらいの自分の信心が出来ていないのに、もう本当にお礼お詫びをする以外にゃないというておられる。
私より10も多いから73になられる訳ですけれども、その先生がしかも5万人もの信者が助かっておるという先生であってそれだ。なるほど原口先生がです、いうなら琴の前に座って樂を奏じられ、唄を神様にお供えなさる時にです「本当にこれで済んだとは思わない」というか、あのうもっとは本当に自分にはもっと良い声がある筈なのに、神様に対して相済まない。「どう言う様な信心をさして頂いたら、先生私が自分で思う存分な声が出る様なおかげが頂けるだろうか」というのがその原口先生の。
だから私はそれを取次がせて頂いていろいろお話を頂いたんですけども。息子さんが金光様の教師になって今櫛原でご修行中です。その先生が言われるのに「お母さんってそう言う事に悩みなさんなって、もうとにかく神様が真心一杯で出ろうが出るまいがあぁたの琴が弾くあのう。例えば自分ではいけんと思うおうが、それをそのまま神様お受け取り下さいというて願うても、そげぇんあんたんごと思わんでん」というから。
私もそういうた、「原口先生そうですよと一生懸命に、もうとにかく毎日毎日琴の前に座って、唄を唄う稽古をなさらない事は一遍もない。あれだけの名人と私どんが思われる人が、毎日毎日稽古にはもうそれこそ打ち込んでおられる。打ち込んでおられながら、いよいよ神様の前に座って琴を弾じられる時に、又は唄を唄われる時に、どうも自分の思う様な声がでない、そこに悩みを感じられる処に名人の名人たるところがある」。
いうならば大阪の泉尾教会の教会長先生が、しかも73、もう来年は50年間もお道の教師になられて、布教に出られてなられるという。その「毎日毎日うまず弛まず稽古をしながら、もう一日を締めくくった時にゃ、神様の前に出てお詫びをするhpかにゃない」というとられる、「それでもこんな私でもやはり使うて貰わなければおられん、という止むに止まれん熱情をもって、神様に向かうております」と言うておられます。
ですから例えばなら原口先生がです、私がその事を御神前に出た得た時に、先生はまだ合点がいかん訳です、今日先生がなら霊祭を仕えられるまで、お急ぎなら霊祭がしまえてからでも、何か頂かなければ帰られんというので待って頂いて。まぁ今日の霊祭に会われた訳ですけれども、とにかく私共が「何事にも信心になれよ」その前後に、お食事をさせて頂くでも、人に面接させて頂くでも、自動車に乗らせて頂くでも、これから仕事にかからせて頂くというても、もっと大きな事をいうなら。
私共が大祭を奉仕させて頂く、なら一家中で霊祭と言った様な事は、大きな行事に違いはない。唯もう坊さん呼んで法事をして、饅頭やら餅やらおご馳走をして、親戚のもん呼んでそれで終いたというなら、もうそれでいい形の上だけの事なら。けれども信心さして頂く者はもう「何事にも信心になれよ」という処を焦点に置くと、例えばこの霊祭を奉仕させて頂くまでにです。
自分の心の状態が御霊に交流するような、神様に喜んで頂くような心の状態で、このお祭りを奉仕させて頂かなければおられないという処に、信心がこういう時に物をいう訳なんです。だから原口先生に聞いてなら頂きたいのは、なら琴の前に座られる時にです、さぁ今日は月次祭今日は大祭だと言う時に、その前後にです自分の心の状態がです、さぁ良う唄おうとか良う弾こうとか。
皆んなにやっぱ褒めて貰う位な立派な成績を収めたいと、言った様なものはひとつさらさら捨てて、唯自分のその琴の前に座られる前後にです、私はお礼が要り願いが要り修行が要る。ちょうど自動車に乗る者が運転台に乗ってハンドルを握る時に、神様只今から何処何処にやらせて頂きます食事をする時に、神様頂きますという心あらばと仰るのだから、只今から琴の御用をさして頂きますという心あらば、その心の状態を作って。これなら琴の前にも座られるという、心の状態を作る事がまず先決だということです。
だからそこの処をです、これはもう先生だけの事ではない。私共から聞いたらもう名人の、いうならば域に達しておられると言う様な先生でもです、恐らくは原口先生一生がです「これで済んだと思わない、もう今日んとだけはよう出来た」てな事はあり得ないだろうと思う。それは原口先生が死ぬまで、恐らく相済まん自分ということを自覚されるあろうようにです、ように私という者を見究めた時に詰めた時に。
これで済んだとは思わない今日の霊祭を「はぁ本当にもう一年祭一年祭と思うたばってん、相済まん一年祭じゃった、今度三年祭ば仕える時には、お母さんまちっとましな心の状態で三年祭を仕えるぞ」と言えれる様な、私は前後の姿勢というものはそういうもんじゃなければいかん。お祭りを奉仕させて貰うまでには自分の心の状態を作っていく、お祭りが済んだら「この次のお祭りはもっと増しな心の状態で奉仕させて頂くぞ」というのが前後に対する処の「何事にも信心になれよ」といわれる信心だと私は思います。
今日の霊祭の事のお願いさして頂いておりましたら「秋山さんの秋という字を頂くんですよね」。ノ木偏に火と書いてある、ノ木偏の上のちょっとあのこうノという字をね取った所を頂くんです、秋と言う事はね、私は寂しいと言う事だと思うんですよ。秋と言う事は私は寂しい言う事、所が上を上をちょっと取ると言う事ですね、そうすと木に火という字があるでしょうね、秋という字が上のの木編のノを取ったら、木へんに火という字になるでしょうが、勿論字じゃありませんけど、これはご理解。
木は心です心に情熱を持てと言う事です、心に火をかけよと言う事です。今朝からずっと、今朝から若先生が頂いたと言う様に、その白熱化する信心と、信心にはどうでもその白熱化する完全燃焼ね、油が完全燃焼しません、と煙が出たり致します、赤い火です真っ白い火の時には、もう完全に燃焼する時です、いわゆる白光化です、白い光化する程しの信心の熱情を持てと言う事です。いまの信心は信心がだれとる、いうならば空き家は秋の字になっとる。
だからこれからちよっと、自分の改まりというか、心のいき方をちよっと替えるだけで、ここのノの字を取っただけで、あとは木編に火と言う事になる。心に火、心が信心で燃えておるということは、何かこう、こう歯を食い縛った様な信心をせろ、ということじゃないです。もう何時も常時です、今言う様に事の前後に、金光様が称えられているか、事の前後に頂きますという心あらば、という心があるか否かと、言う様な私は意味合いだと思うのです。
今日の霊祭を私は頂かせてもろうて、私自身大変いろいろと教えられる事がありました。あのうやはり御霊様自身があれほど熱心な信心を頂いておりましたから。あのう今日のような合楽全体が研修の日でこう沸き立つ様な日に、丁度今日お祭りが仕えられたということも、また信心のそれこそ、同胞という程しに信心のお付き合いが出来ておった方達が、今日は婦人会で全部見えておられたということ、だから今日の御霊様に確かに関心をよせられておられる方達ですから。
あのう私がお願いをしてあのうなら何人かでもよいから、残って玉串だけでも上げて行ってくれとま言った事でございましたけれども、これとてもやはり神様の働きです。だからね神様のおかげというものはね、私共にその気がなからにゃおかげは、おかげの引っ掛かりが出来んです。例えば信心のない者、例えば今日はあのうなんのが、あのなんのんはもう帰りましたか、和江さんだったか、例えばはぁそれはおかげを頂いたね、というた事でしたけども。
今日はいうならば和江さんが為にゃどういうことになるの、叔母さんになるたいの、叔母さんになるでしょう、血を分けた叔母さんになる訳でしょうがね、ですから今日という日にめったに参って来んのが親子三人で参ってきとる。だから御霊様にもやはりそういうな意味でご挨拶が出来たはずです。と言う様な事は、やはり御霊の働きといわなければおられません。
けれどもなら彼達がそのうささやかではあるけれども、信心をしよるから引っ掛かりが出来たという感じがしますよね。私は本当にそれを思います。だから全然信心がなかなら引っ掛かり、引掛けようがないね、いかに神様とても。だから本当に信心の心をね、ひとつ日常生活の上に現わして、そしていくと言う事は、結局は「何事も真心になれよ」ということなんです。
そして私共がおかげを頂いておると言う事はです、取りも直さず神様が喜んで下さる御霊様が喜んで下さる事なら。先ずはお礼が言えれる、なら千代子さんがおかげを頂いて結婚の相手がここに定まりましたという、千代子さん自身の喜びが御霊様に通わない筈がない。美登里さんがおかげを頂いて、本当にお母さんの難儀の中に高校を卒業させて頂いて、そしてしかもおかげを頂いて、本当にあの神ながらの就職のおかげを頂いて、お母さん今日が初の給料日だった。もうこれをお母さんが喜んでくれぬ筈がない。
だからねそういう自分にも喜べるようなおかげを、銘々が頂く事なんです信心とは。そこに神の喜びがあり御霊の喜びがあり、なら銘々の喜びがあるということです。そういうひとつおかげを頂きたい。そう言う様な事を私今日の霊祭から、もう本当にあのう信心の素晴らしいということは、ただおかげを頂く奇跡的なおかげを頂いたと言う事が素晴らしいのでなくて、日々真心になれれる、そして信心の真をこのようにして現わしていけれると言う事が、私は有り難いと思うですね。
どうぞ。